高階貴子 百人一首に選ばれた当代きっての女流歌人!中宮・藤原定子の生母
今回、取り上げる人物は、藤原道長の長兄・藤原道隆の奥さんである高階貴子(たかしなのたかこ)です。出世街道を進む夫だけでなく貴子自身もとても出来る女性でした。
高階貴子は百人一首に和歌が選ばれた当代きっての女流歌人でした。大河ドラマ「光る君へ」では、板谷由夏が演じている役になります。
高階貴子は、藤原道隆との間に嫡子・藤原伊周や一条天皇中宮・藤原定子がいて順風満帆な人生でしたが、夫の死後に天国から地獄へと突き落とされてしまいます。
高階貴子の辿った人生を下記で紹介したいと思います。
高階貴子の波乱万丈の人生
高階貴子は、のちに一条天皇の東宮学士になった高階成忠の娘として誕生しました。生母は不明であります。
学者だった父親の強い影響を受けて貴子自身も漢文や詩に才能があったと伝わります。そして、高内侍として円融天皇に仕えるようになります。
その後、高階貴子は藤原道隆と結婚して3男4女を儲けました。子の多さからも二人の仲は良好だったようですね。
貴子の産んだ藤原伊周、藤原隆家をはじめとした子供たちは、みんな出世街道を邁進していきます。中でも長女の藤原定子は、一条天皇の寵愛を受けて中宮になりました。
しかし、夫の藤原道隆が995年(長徳元年)4月に亡くなると状況は一変してしまいます。貴子の産んだ息子たちは、(貴子からみた)義弟の藤原道長との権力争いに敗れ長徳の変で完全に失脚してしまい配流の身となってしまいます。
息子たちが出立する際、貴子は同行することを強く願いましたが聞き入れて貰えずやがて病気になり996年(長徳2年)10月に亡くなりました。夫の死からわずか1年半での不幸な死でした。
高階貴子 百人一首の和歌
高階貴子は、関白・藤原道隆の嫡妻でありながら才能溢れる女流歌人として女房三十六歌仙にも選ばれています。
高階貴子の和歌は、「古今和歌集」「新古今和歌集」「拾遺和歌集」などに収められています。又、儀同三司母という通称で百人一首の歌人としても有名です。
高階貴子が詠んだ百人一首
54番「忘れじの行く末まではかたければ けふを限りの命ともがな」
訳:いつまでも忘れないという言葉は、将来ずっと変わらないのは難しい事でしょう。なので、このまま今日限りの命であって欲しいです。藤原道隆を想っての歌だそうです。
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